2012年6月18日月曜日



国宝11面観音像

渡岸寺観音堂(向源寺)11面観音菩薩像 

この仏様の前に立った時の驚きは今でも忘れられない。
仏像大好き人になってしまった理由の一つにこの仏様を拝観した事があると言えるほどほど、大きな影響を与えられた。

北陸本線湖北のJR駅高月駅からほど近く、徒歩で7~8分のところにその観音堂はあった。
「古寺巡礼」、「隠された十字架」など寺を題材にした小説が、私に与えた影響は少なからずあるが、井上靖の「星と祭」もその1作品であった。その作品の影響もあったように思うが、湖北にある11面観音を拝観したいという思いはいつも持っていた。しかし、アクセスも決して良くなく、なかなか訪れる機会がなかったが、30代半ば大阪出張の帰りに思い切って訪ねた。
湖北の11面様は40数体ほどあるといわれていたが、この11面観音一つにお会いするだけで十分と言えるほどの作品だ。

この十一面観音は、日本全国に七体ある国宝十一面観音の中でも最も美しいとされ、日本彫刻史上の傑作と言われる。          

11面観音立像
私が訪ねたのは11月の終わり、大変寒い日だった。
10時半過ぎの拝観時間のはじめの頃、拝観者は私一人。その一人の男の拝観者にたいして、輪番でお寺を守る村人3人が、村の大切な大切な宝物を見せるように対応してくれた。
当時は木造の本堂におかれ、観音様を四方から見る事ができた。
(今はコンクリートの宝物館で、後ろにまわれず暴悪大笑面は見る事が出来ないと思う)

古い畳の床は凍えるように冷たく足がしびれるような感じだった。しかし、その冷たさも忘れて観音様を見入っている自分がいた。

『井上靖のコメント』
渡岸寺の十一面観音を見に行ったのは四月の桜の時季であった
観音堂は信長に亡ぼされた浅井氏の居城小谷城のあった丘陵がすぐそこに見える湖畔の小平原の一画にあった。写真ではお目にかかったことのある十一面観音像の前に立つ。像高一九四センチ、堂々たる一木造りの観音さまである。どうしてこのような場所にこのような立派な観音像があるかと、初めてこの像の前に立った者は誰も同じ感慨を持つことであろうと思う。胸から腰へかけて豊な肉付けも美しいし、ごく僅かにひねっている腰部の安定した量感も見事である。顔容もまたいい。体躯からは官能的な響きさえ感じられるが、顔容は打って変わって森厳な美しさで静まり返っている。頭上の仏面はどれも思いきって大ぶりで堆く植え付けられてあり、総体の印象は密教的というか、大陸風というか、頗る異色ある十一面観音像である。正統的という言い方をすれ                   ば、女人、偉丈夫の違いはあれ、一脈、聖林寺の十一面観音に通じるものがあるよう
                    に思われる。時代的に見れば法華寺の十一面観音と並ぶ貞観彫刻の傑作ということ
                    になる。
                    観音像戦国の兵火にかかり、それまでの古刹渡岸寺は焼けたが、土地の人の手で
                    救い出され、地中に埋められて難を逃れた。

      最高傑作といわれ、祈りの仏にふさわしい、慈愛に満ちたお姿の観音さまです。
 頭上の観音様のお顔も素晴らしい。


頭の後
私は10年ほど前から私の仏像ベスト30というランキングを勝手に作っている。それは実際に私が拝観した仏像の中のランキングで新しい仏像にお会いするたびにランキングは変わってしまうが、この10年間、渡岸寺の
11面様が1位を外れたことはない。
このランキングは、基本的に1体の観音様か四天王とか11面観音など
一つまたは一つのテーマでまとまった作品をランキング付けをしたものだ。
したがって興福寺の仏像全体といった分類はしていない。

<悪を笑い飛ばす暴悪大笑面>


是非時間を割いても拝観する価値は大きいと確信します。




2012年6月17日日曜日

<仏像話回り道>

奈良のシリーズを始めたが、東大寺2回、とすれば次は何が何でも『法隆寺』に行かねばならないだろう。
法隆寺には、それは紹介したい仏像や伽藍も含めて知っtakaの嵐になってしまう。

釈迦三尊像 阿弥陀三尊像 夢違い観音 ファンの多い百済観音 そして秘仏救世観音・・
一体どこからどのように書けばいいか非常に難しい。

そこでちょっと頭休めに湖北の11面観音様に触れたい。
全く学問的な裏付けなど全くないが、どこの仏様が好きかという基準で「私の好きな仏像ベスト30」を作ってある。
もちろん、ベスト30はすべて拝観しているが、日本中のすべての仏像を拝観して選んだ訳ではないので、新しい仏様にお会いすれば順位は常に変動する。

その中で、一貫して第1位の座を譲らないのが「渡岸寺(どうがんじ)の11面観音」様だ。
このベストランキングは、お寺全体ではなく、一体の仏像を好きな順に並べたもの。

この11面観音は、一木造。一本の木から掘り出されたもので、戦火や廃仏毀釈の流れを超えて、村人に守られ続けてきた仏様。

次回、詳述する。お楽しみに・・・。
その後、法隆寺に行こう!!!。

2012年6月16日土曜日

<奈良の仏像>シリーズNo.2             

奈良 東大寺から始めたからには、戒壇院に触れない訳にはいけない。


東大寺・戒壇院
東大寺大仏殿の西側に、まさにひっそりと佇むお堂が戒壇院だ。
東大寺を訪ねる人のほとんどが目指す大仏殿から、西側200~300メートルほど離れたお堂であるからか、人の姿も圧倒的に少なく、この戒壇院に喧噪はない。
しかもこのお堂に置かれた仏像は『四天王像』のみ。言ってみればただの
4体の仁王様が置かれただけのお堂だ。

しかし、この四天王はただ者ではない。
三月堂の脇侍日光・月光菩薩と同じ塑像だと思う。お堂の中は拝観をする
場所とわずか数段登ったところ、須弥山の四方を守るように4か所に四天王像が置かれている。

戒壇とは受戒(僧侶として守るべきことを履行する旨仏前に誓うもっとも厳粛な儀式)が行われる場と紹介されている。

私のつたない知識から言えば、仏のおられる須弥山で、帝釈天に仕え、まさに四方を守護している仏様が四天王
持国天・増長天・広目天・多聞天
ということだろう。

前置きはこの辺にして、この四天王は天平時代の傑作。
その姿は素晴らしいの一言に尽きる。
最古の四天王として有名な法隆寺の四天王も素晴らしいが、知っtakaとしては、この四天王像がNo.1と思う。

多聞天
四天王の中で、多聞天は単独で本尊とされ事もあり、その場合は「毘沙門天」と
言われていると思う。
戦いを守護する仏で、
これも定かな記憶ではないが、戦の名将と言われ
武田信玄を最後まで悩ませた軍神「上杉景虎」の守護仏が、この毘沙門天であったと記憶している。景虎は自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じていたという記述もある。
映像のシーンで、上杉勢の旗は「毘」の一文字であった。

これも仄聞だが、上杉景虎が存在していなかったら、武田信玄が天下を取っていたかもしれない・・。
5回にわたる川中島の戦いをはじめ、謙信にあまりに多くの時間と力をとられ、京への道が計り知れないほど遠い道になってしまった。そして、京への途上、病に斃れる。
持国天
四天王像の足下には、邪鬼が踏みつけられているがこの出来栄えも見事だ。

個人的には、この四天王すべてが素晴らしい出来栄えと思うが、圧倒的に心を揺さぶられる像は、右にアップで紹介してある『広目天像』だ。

額にわずかにしわを寄せ、遠くの世界を見据え、人間の心の中までを射ぬいているような
眼光の鋭さだ。
手に持つ物は筆と書(巻物)。この広目天には武器はない。心の目が武器の代わりをなしているのかもしれない。
そして、知の力だけが、悩める私たちに最も必要なものと伝えようとしているように思える。



戒壇院の案内の僧も、最近女性にこの広目天が、大変人気があると伺った。

このお顔は底知れぬ知(智)を秘めた男の顔の象徴のような存在に思える。

人間40なったら自分の顔に責任を持て!。こんなメッセージを聞いたことがあるが、広目天像の前に身を置くたびに自分は、どんな生き方をしてきたのだろうか。そしていささかでも知を感じてもらえる顔になったのだろうか・・そんな事を、いつも思い至らせてくれる仏様である。

まだまだ書き続けたいが、紹介したい仏様が、列をなしているので、東大寺編 ひとまず終了・・・・。



















2012年6月15日金曜日

『韓国仏像見聞録』






国立韓国中央博物館

5月下旬、新しい仕事チームの仲間たちと、2泊3日で韓国への旅にでた。

私自身は10数年ぶりの2回目。
「骨付きカルビの焼肉」「参鶏湯」「タッカルビ」・・
何を食べたか全部は覚えていないが、韓国の旅=食の旅といっても言い過ぎではない、とにかく安い、旨いには驚いた。



従軍慰安婦の碑が作られたとか、スポーツなどでの日韓戦のヒートアップなど、日本と韓国の間には、まだまだ超えられない大きな溝が横たわっているように感じる時もあるが、街中に日本語があふれ、一般の人々の親日ぶりへの変貌にはいささか驚かされた。

これも「冬のソナタ」から火がついた韓流ドラマへのニッポンミセス軍団の熱狂が大きな役割の一つだろう。

今回の韓国の旅は、私自身の最も大きな目的はグルメやマッサージではなく、韓国中央博物館訪問にあった。
最もグルメやマッサージも当然楽しみであったが・・。

上の写真はその博物館のエントランス、そして下が館内ホールだ。 
中央博物館館内
仏教のルーツを訪ねて・・。   
ニッポン仏教のルーツが大陸にあることは言うまでもない。
インドの釈迦誕生によって、生まれた仏教は中国を経て半島にわたり、そして日本に伝わった。もちろん唐招提寺の鑑真和上のように、ニッポンへの仏教の布教に生涯をかけて取り組んだ中国僧も多くいた。伝教大師最澄や弘法大師空海のように、当時隆盛を極めていた中国へ渡り、直接教えを受けてきた僧たちが日本仏教の礎になっていることはも言うまでもないだろう。
中央博物館インド仏教コーナーに置かれた釈迦像
教義とは別に、仏像は半島の影響を大きく受けているのかもしれない
本来ならば、釈迦誕生の後をたどり、敦煌莫高窟の壁画を見に行くことがルーツを訪ねることになるのかもしれないが三蔵法師でもないのだからそこまでするつもりも全くない。

とまれ、私は学者でもなく、研究者でもない。単なる仏像オタクジジイに過ぎない。
よく調べもしないで、中央博物館には半島の様々な文化財があるとの情報だけで訪問しただけだ。

博物館には白磁や青磁の壷や香炉など、彫刻、絵画、書など広々とした空間に実に多数陳列されていた。この壷をもって鑑定団に出たとしたら、会場のざわめきがうねりのようになるような代物かのしれない(?)。
つまるところよくわからないということに過ぎないが・・。

しかし、右上にあるインドの文化財コーナーに陳列されていた釈迦坐像は、ニッポンのどこかの寺のご本尊と言われ
ても何の違和感もない。詳しい説明は記憶していないが、かなり近い過去に再建されたものだろう。1000年の歴史の重みを感じさせるものではなかった。

その中で最大の収穫は左にある「弥勒半跏像」だ!。
像の下に、小さくさりげなく「国宝」の表記があった。
前に紹介した広隆寺の弥勒半跏像とも似ていなくはないが、私の頭に浮かんだのは右に紹介してある大阪
羽曳野市にある野中寺の弥勒半跏像(重要文化財)だった。この像は高さ18.5㎝ほどの小さな仏像だが、その出来栄えはなかなかのものと感じていた。
(飛鳥時代から奈良時代の制作)
こうして見比べれば、違う国で違う時代につくられたとはとても思えない。
この弥勒半跏像1体だけで、中央博物館を訪れた価値があったと思う。

☆この左の写真と上の釈迦像は私の携帯で撮ったものだ。禁止を破って隠し撮りをしたわけではない。
私の傍の韓国の親子が、デジカメでフラッシュをたいてピース写真を撮っていた。
その近くにいた博物館関係者は一切注意などしていない。
それで、私も安心して写したものだ。

思い出せば、数年前、兵馬俑を見に、始皇帝陵を訪ねた時、約9000体の兵馬俑で唯一完全な形で発掘され、ガラスのケースに入れられて飾ってあった兵馬俑も自由に写真を撮ることができた。
見知らぬ日本人観光客
日本人の文化財保護の強い気持ちは理解するが、日本のお寺は本当に保護のためだけに写真撮影を禁じているのだろうか・・少しく疑問が湧いてきた。
多分一つは日本人のマナーの悪さがあるのかもしれない。
韓国に比して、仏像拝観者は数十倍だろう。最近、さらに増え続けている。静かに仏様の前で頭を垂れればいい。
それが拝観者の原点だ。でも日本人は規制を作らないとできない、やらない人種かもしれない。

誰かが静かに拝観をしているときに、フラッシュが絶え間なくたかれたら、なんと落ち着きのない
仏像拝観になってしまうだろう。

もう一つはお寺の収入源ということもあるのかもしれない。現在、写真集などを出すために、
雑誌社がお寺に支払う撮影料は結構な金額なっていると聞いたことがある。
書店に並ぶ仏像本にイラストの仏像紹介が増えてきているのも、このためらしい。

私の話は、ほとんどが仄聞だから、信ぴょう性に欠けるところがあるのはお許しあれ。
ネットで全部調べて書いたら、それは「知っtakaの仏像話」というタイトルに偽りありになってしまうことになる。

韓国訪問の、一日が旧暦の釈迦の誕生日だったようだ。日本では4月8日花祭りがその日と言われている。恥ずかしきPは川の中に置かれた釈迦誕生のハリボテ(天上天下唯我独尊のポーズ)それを気取って真似をしている、大人になれない日本の観光客の姿・・・。

もう少し、書きたいことがあるが、あまりに長すぎるのでひとまずここで終わろう。長文失礼いたしました。
(この項終わり)